大人の側がまず変わらなあかんのよ。「ケアしケアされ、生きていく」ために【竹端寛さんインタビュー】
現代社会において、自己責任はなぜこれほど常識化してしまったのでしょうか。スマホや電子化が進み、社会はますます便利になっていくように感じますが、その一方で誰もが生きやすい世のなかになっているようには思えません。
昨年、D×Pタイムズで配信した記事「政治家に届いていますか? 年金、物価高、同性婚…生きることに不安を抱えている若者の声【調査結果】」では、若者が日本の将来に大きな不安を抱えていることが明らかになりました。
今回は、昨年秋に刊行された『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマー新書)において、現代日本をケアの奪われた「昭和98年的世界」だとし、ケア中心の社会を取り戻すべく「他人に迷惑をかける」ことの重要性を説く、兵庫県立大学准教授の竹端寛さんにお話を伺いました。
生きづらさを抱えた若者との出会い
──竹端さんは以前からD×Pをご存知だったんですよね?
今井さんがイラク人質事件の一人だったことはもちろん知ってました。けど完全に忘れていたんです。でも数年前、たまたまPodcastを聴いていたら今井さんがゲストに出ていてものすごく面白かった。今井さんが挫折を経た上で、若者支援を始めたというプロセスがめっちゃ面白かったんです。
イラク人質事件でバッシングに合い、すごくしんどい思いをして自暴自棄になった。でもそれをサポートしてもらった、声をかけてもらったという経験に昇華して、自分も人のことを支えようと思い始めたっていうのは、ちょっと青臭いけどすごく尊い。それから今井さんのTwitter(現X)をフォローしたり、NHKBSのドキュメンタリー「ザ・ヒューマン」も観ました。
そのころ、僕の職場である大学で生きづらさを抱えた若者と結構出会い始めたんです。親に支配されてるとか、条件付きの愛情しかもらえないとか、親子の縁を切りたいけど切れへんとか。学生の生きづらさを聞いていけばいくほど、親との関係や生まれ育った環境のなかでしんどくなっている。
でもゼミ以外ではつながるところがない。これを聞いて、社会的にサポートする存在が必要やなと思っていたところでした。だからユキサキチャットを紹介した学生もいるんです。
ユキサキチャットとは、D×Pが行なっている不登校や高校中退、引きこもり状態、困窮などの困難を抱えた10代がLINEで相談することができる窓口。本人の望む状態を聞きながら、一緒にひとりひとりに合ったつながりと仕事を考えていきます。
「他人に迷惑をかけるな」という呪縛
──親との関係で若者の孤立が深まっている状況があるんですね
この本(『ケアしケアされ、生きていく』)の帯にもあるけど、まさに「他人に迷惑をかけてはいけない」って思い込んでると、どんどんそれにドライブがかかっていくんです。生きづらさを抱えてるんだけど、友達には重い話をしてはいけない。そういう呪縛が強い子が多い。だから変な話、この研究室にティッシュを置いたのは泣く子が結構いるからなのよ。もちろん泣かしてるつもりはなくて(笑)。
でもある時期から、安心して泣ける環境がなくなってしまったんやなと思う。「他人に迷惑かけるな」という呪縛は自己責任とセットなんです。歯食いしばって頑張れ、他の人の前では笑顔で余裕があるふりをしていろ。そこに私情を挟むなっていうのがくっついたら、もう何も言われへん。できる限り、自分が身を削って働かなあかん。しかもそうすることによって、この社会はスムーズに回っているという現実がある。
でもみんな、その自己責任には違和感を抱いている。だけど言葉にできないからモヤモヤしてしまうんだけど、その気持ちをそのまま話せる場所がない。すると理不尽なことがあっても、黙って従うしかない。しかも「論破王」みたいな人がちやほやされるから、言葉を発するときはクリアカットに言わなければいけないという脅迫観念がある。でも彼らのやっているのは、自分が勝つためのディベートなんよね。
オープンダイアローグ※では、「違いを知るための対話」と「決定のための対話」っていう2つがある。「モヤモヤすんねんけどどうやろ」「いや、俺はこうなんやけど」みたいな、違いを知る対話が本来はすごく大事なのに、この社会では相手に勝つための決定のための対話しか行なわれていない。すると真面目ないい子ほど、先生が求める答えを言わなければいけないという脅迫観念に駆られて、自分のモヤモヤなんかますます喋られへん状態になってしまう。
※オープンダイアローグとは1980年代にフィンランドの精神科病院で開発・実践されてきた、主に発症初期の統合失調症患者への治療的介入の手法。医師と患者が1対1で向き合うのではなく、患者、家族、専門家チーム(医師、看護師、心理士など)が輪になって行なう「開かれた対話」のこと。
象徴的なのが道徳。先生は自分の意見を言いなさいと言いながら、黒板にペタッと貼る答えみたいなものを事前に用意してる。さらに求める答えを言わなかったら、嫌な顔をする先生もいたり。先生自身が教科学習と同じで、すでに答えを持っていて導こうとしてしまう。「先生の意見とは違う意見を持っています」って手を挙げたら、無視されたり怒られたことがあるって言う学生がいる。小学校の高学年ぐらいで「あ、結局自分の思ってること言ったらあかんねや」「先生の言う通りにした方が点数取れるんや」と思っちゃうと、それがどんどん内面化してしまう。
中学、高校ぐらいになると、もう忖度することが当たり前になる。これは明らかに大人の責任なんよ。大人はそういうものを子どもに求めるし、大人自身も社会のなかで中間管理職とか学校の教員として求められているから。
──自分の感じたことを言っただけなのに、わがままを言うことになってしまう
そういうことを言う子は、先生の授業を止めたりする。すると発達障害ちゃうかって言われちゃう。そういうひとりひとりのしんどさに応えられない学校って、まさに明治以降つくられた、均質で質のよい労働力を生産するための学校なのよね。嫌な言い方をすると、労働力としての商品という規格から外れた人は、規格外として特別支援学校に行かされるということになってしまう。でもそれ自体がすごく排他的ですよね。
いまこんなに不登校が多かったり、発達障害児が多いとか、子どもの自殺が多いっていうのは、そもそもそういう標準化、規格化のための学校がもう賞味期限を過ぎてるということです。僕は本のなかで、現代を「昭和98年的世界」って書いたわけですけど、要は昭和が終わって34年も経つのに未だにその価値観を変えられていないんです。その影響をまともに受けてしまっているのが、若者やと思う。
誤解なきように言っとくと、これはある意味「教育の大成功」なのよね。コンビニでバイトしたら分かると思うけど、めちゃくちゃレベル高いやん。だけどものすごく低賃金。例えば中卒、高卒の人でコンビニの仕事ができるのは、ものすごく日本の教育レベルが高いから。質の良い労働力を安価に使えるような国としては成功した。でもあまりにもこの昭和のシステムが成功しすぎたから、誰もその価値観を変えようとできてへんところに問題がある。
モヤモヤをモヤモヤのまま語ることの重要性
──そしていまは、その昭和的価値観で社会をスムーズに回すことにだけ注力してしまっていると
ただみんなそのなかで悲鳴を上げてると思うのよね。文学研究者の荒井裕樹さんが言ってたけど、「苦しみ」は言語化することができると。こういうことがしんどいねんって言えるのが苦しみ。でも「苦しい」っていうのは言語化できない。それがリストカットだったりオーバードーズだったり、引きこもりだったりする。
標準化、規格化した定型的な言葉はたくさんあるけど、標準化も規格化もできないひとりひとりのオウンボイス、自分のほんまもんの声を出せる場がない。小さい頃から、どんな場でもいいんだけどモヤモヤをそのまま言い続けることができたら、言葉で表現する術が身についていく。
でも自分の気持ちを口にしても、「そんなことを言うんやったら勉強しなさい」とか「そんなこと言っても仕方がないでしょ」という形で抑圧されていく経験をしていると、言葉で表現できなくなってしまう。やっぱり何人かの学生から聞くのは「馬鹿にされるんちゃうか」「 わがままと思われるんちゃうか」っていう言葉。たまに泣きながら「なんで泣いてるのか、わかりません」っていう人もいる。
本当は苦しかったけど、「いや、うちは虐待されてる家ではないので」「こんなことで泣いたらいけないんです」とかって言うわけ。「いやいや、あんたしんどいことあったんちゃうの」って言っても、「いや、うちの家は普通です」「別に虐待があったわけでもないです」「毒親でもないです」って。
それぐらい、抑圧してることにも気づいていない人が多い。やっぱり自分の親を毒親と認めることはなかなか難しい。家庭って比較できないから。親から世話になったのはその通りなんやけど、世話になったことと親にも至らぬところがあると認めることは、また別のことやと思う。
でもやっぱり真面目な良い子ほど、親に世話になったんだから親の文句を言ってはいけないとか、親の前でいい子でいなくちゃいけないっていう考えがすごく強い。 若者がそのことを相談できないっていうのは、相談すること自体が親への裏切りだと思ってしまうんです。
斜めの関係を築くこと
いまの社会の問題点は、斜めの関係の少なさなんじゃないかな。親子だったり先輩後輩だったり、上下の関係はあるのだけど。権力関係ではない、斜めの関係が全然ない。友達同士ではそんなこと言われへんっていう子が、 友達じゃないし先生や家族とかの上下関係にある人でもないところで、ボソっとそういうことが増えたりすると、本人もだいぶ楽やろうなと。
──友達は横の関係で、親とか先生とかは上下の関係なんですね
斜めは権力関係になく、かといってたまにしか会わへんから、別にこの人とそんなに忖度せんでもええわって思える。ゼミで僕はみんなに自分の意見を言いなさいって言ってるけど、他の人の話とか聞いているうちにいろいろと湧いてくる。僕の話を聞いて他の子の話を聞いていると、「そう言えば私も…」とかって言う子がいる。友達と1対1だと水平になるし、親や先生だと上下になっちゃうけど、ゼミという場があることで、斜めの関係が出来上がる。
もしかしたらユキサキチャットも、斜めの関係を求めて使っている人がいるのかも。もちろん食料とかお金がもらえるのはありがたいけど、それ以外に自分に関わってくれる斜めの関係の人がいるっていうことが、心強い人もいるかもしれないよね。こんなこと言っても聞いてもらえるんだっていう。自分の本当の気持ちを言っても聞いてもらえない、馬鹿にされちゃうっていう経験をずっとしてきた人は、なかなかそういう関係を築けないでいるから。
時代の変化で言うと、昭和にはまだ親戚付き合いがあって、そのなかに斜めの関係があった。家族だけだったらきついけど、親戚や従兄弟とかの関係のなかで、必ずしもこうじゃなくてもいいんだなみたいなことがあると、まだ息抜きができる。いまの若い人を見てて思うのは、すごく抱え込んでるし、相談するのが下手くそやと思う。
でもそれは若い子に能力がないからじゃなく、そういう場を提供してこなかった大人の責任だと思うのよ。例えば、グリ下に来る子は不良だって言う人がいるけど、そこにしか行けない子を生んでしまった社会がある。グリ下に来る子は、誰かとつながれるかもしれないと思って来る。よく言われるのは、薬物依存症の人に「ダメ絶対」が絶対ダメなのはなんでかっていう話。
それに頼らざるを得ないぐらい追いつめられてるから薬物に依存するわけで、藁をもすがる思いで手にしているものが薬物しかないっていうこと自体が問題なんだよね。薬物依存の人がピアサポートグループ※に行くことによって、薬物以外の方法を手にいれることができることがある。
ということは、グリ下に集まるような子は不良だからあかんじゃなく、その子らがグリ下に行かなくても安心してつながれる場があれば、わざわざ行かなくていいのだと思う。それが多分ユースセンターになってくる。そういう若者が、自分たちの居場所としてのユースセンターをつくっていくことによって安心して話ができるようになる。そういう場が日本には決定的に不足しているよね。
※ピアサポートとは、主に障害者やがん患者、アルコール依存など同じような悩みを持つ人たち同士で支えあう活動のこと
若者問題は大人の問題だ
確かにグリ下の子たちも自身の空虚を埋めるために、薬物とか売春をすることもあるだろうけど、薬物とか売春だとかで絡め取ろうとする、大人の側も空虚なんだよね。空虚の連鎖を止めるには、まず大人の側が変わらなあかんのよ、子どもやなくて。それは自分自身の虚しさに大人がもう1回出会い、見つめ直すことができるかどうかが鍵になる。
僕の本を読んでくれた子育て世代の人は口を揃えて、「あなたの本は読むのがしんどい」って言う。子育てしている等身大の自分を見つめ直さなあかんから、しんどいって。こんなこと言ったらなんだけど、子どもを通じてやっと自分を見つめ直すきっかけが与えられたにもかかわらず、子どもが悪いと言って蓋するのは、子どものSOSを通じて自分の魂が呼びかけてくれてるのにそれを見て見ぬ振りすることだと思う。
大人は自分の空しさとか空虚さに、自分を振り返って向き合わなあかんのに逃げてるんだよね。だから、若者問題って「若者が困りました、若者をなんとかしましょう」でもあるんだけど、一方で若者を育ててきた親世代がちゃんと自分のこと見つめられてるんですかっていう、親世代の問題であり大人の問題だと僕は思う。
家族システム論では、1番脆弱なところに問題が出る。その定式に当てはめると、若者が困難な状況に置かれているということは、その親や先生など、若者を囲む環境のなかでさまざまな抑圧が働き、感受性の高い・脆弱な若者がその抑圧の最大の被害者になっている可能性が高い。「困難な・問題のある若者だ」という前に、若者が「困難」や「問題」を引き受けざるを得なくなった背景や社会構造にこそ、目を向ける必要がある。それをせずに、問題を個人化し、若者を批判するだけでは、何も状況は変わらない。
僕はこの本の3章で「ケアレスな自分」って書いたんだけど、金儲けだとか、社会的評価という他者比較ばかりに目を向けて、本当は自分自身が何をしたいのかとか、自分自身どんな風に生きたいのかみたいな、 自分へのケアに欠けているのが現代。昭和の論理がそれをずっと追い求めてきた。もっとええもん買いなさい、ええ服着なさいって。でも他の人よりもいいものを持ってなきゃいけないみたいに駆り立ててしまうことが、虚しさにつながる。セルフケアはひとりでできるものじゃなくて、対話のなかにある。
──セルフケアも自己責任論の裏返しのような気がします
商業主義に絡め取られてるよね。いい入浴剤買いましょうとか、贅沢なご飯食べましょうとか。全部金で解決しようとしてしまう。さらに本来は金で解決できひんものもプライスレスとか言ってしまう。本当はケアは金で解決できないものであって、それはセルフではなく関係性なんよね。昭和のおっさんはそこをスナックで求めてたわけよ。ママさんがいておっさんがくだらんこと言っても、なんか褒めてくれて。僕の場合は売ってくれる人との関係性で、ワインはここで買うとか、服はここで買うとか決めてる。
確かにネットで買った方が安いんだけど、その人との関係性を続けるためにそこで買ってる。ケアは関係性だって言ったら、竹端さんは家族もいるし結婚もしてるし、子どももいるからでしょうって言われるんだけど。いやいや、それだけじゃなくて馴染みのスナックとか飲み屋にマスターやママがいるとか、いつも買いに行くお店があったりして。その関係性のなかで商品を介在しながら、人との関係を深めていくこともできる。
ケアフルなお金の使い方としての寄付
今井さんのツイートとかD×P の発信を見ていると、この関係だったら続けたいと思ってる人が月額寄付サポーターになってくれてるんやないかな。それはすごい大事なことやと思う。豊かな関係性を継続するためのお金の使い方もあるはずなんだけど、いまの社会の常識である四半期決算の論理はそうは言わない。でも5年、10年、20年、30年と続いたときに、その縁を豊かにするためのお金の使い方としての寄付や遺贈っていうのはあるよね。
そういうケアフルなお金の使い方と、ケアレスなお金の使い方がある。それは関係性を保つか切るかっていう部分。お金の使い方として、東大教授の安富歩さんが言ってたけど、関係を切るためにも金を使うことができる。この親と一緒にいたくありません。このパートナーと一緒にいたくありません。だからお金を使って関係を清算しましょうっていう。ただ一方で豊かな関係を築いたり、継続するためにもお金を使うことはできる。それは多分、商業主義とはまた別の使い方だよね。
ご縁をどう豊かにするのか。主はお金か僕たちか。お金が主になってしまうと、お金に振り回されちゃってつまんないけどね。
インタビュー・執筆:青木真兵/編集:熊井かおり
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